地鶏食堂までの道筋

大学時代はマージャンとCountryMusicに呆け、今から50年前大学卒業と同時に結婚。

2児の父親と成りながらも、仕事そっちのけで渓流釣りに没頭。               

静岡から連れてきた嫁とは争いが絶えず、一年365日の大半は夫婦喧嘩に明け暮れていました。

 

そんな時、怪蛇ツチノコを世に知らしめた、山本素石氏(故人、京都ノータリンクラブ会長)執筆の随筆集「逃げろツチノコ」や「釣山河」に出会い、ユーモア溢れる痛快な生き方に感動!

この世でただ一人の師と成りました。                                                                 

早くに肺がんで逝かれましたが誠に残念に思って居ります。

 

故人の著書は、昭和20年代の山村の生業が生き生きと描かれており、故郷の小川で遊んだ幼少期をまざまざと呼び戻してくれるような作品の数々でした。

 

「ツチノコとは」

 

ツチノコを一年間飼育した記録・・・木乃倉茂著より

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昭和17年夏 長野県埴科郡西条村の山林内で捕獲された、本物のツチノコの写真です。

 

これは戦時中に日本軍が「化学兵器工場」を長野県に建設中に掘り出され、科学者達に1年間飼育されたツチノコの写真です。

軍上層部の指示で、「化学兵器工場」に携わった科学者達に1年間飼育された時の記録です。

完全な夜行性で、腐葉土の中のミミズを餌に飼育されました。

マムシの持つ毒・・・・タンパク質を破壊する酵素(ポリペプチドトキシン・プロテアーゼ)の他に幻覚症状を引き起こす作用を持つムスカリンとリゼルグ酸ジエチルアシドと言う猛毒を持ち合わせて居ます。

その後、化学兵器工場でガス爆発が起こり、軍の命令で当時の資料や写真は焼却処分され、僅かに残った資料や写真を木乃倉茂さんが、纏めて一冊の本にされたものです。

興味のある方は、福岡総合図書館にアクセスし、キーワードに「ツチノコ」と入力して下さい。

貸し出されて居なければ、読むことが出来ます。

 

 

 

TBSテレビで放映された「ツチノコのミイラ」の写真です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

捕獲する時に穴から首を出していた画像                            

家に持ち帰り、窓に飛び移ったツチノコの画像

 

 

俺の人生の師匠は「あの少しばかり社会性の足りん」オッサン(故人 山本素石氏)の生き方だと固く決意し、故人の作品の主人公さながら雨の日も風の日も寸暇を惜まず山河を駆け回りました。
しかし飯は喰って行かにゃあ成らんし、会社を2~3転々としましたが、とうとうサラリーマン資質に何かが欠落して脱落。

 

行き場を失くして転がり込んだ先は、家業の福岡中央卸売魚市場内の「市場食堂」でした。

寝起きの悪い私にとっては、深夜0時に仕事開始のこの職場は地獄の毎日でした。

 

一刻も早く脱出したかったのですが、家業故「退職届」を我が身に出す訳にも行かず、転身するまでに16年の歳月を要しました。

 

ただ魚市場の食堂と言うのは、福岡市職員・商社・荷受・仲買・魚屋・飲食店の店主・荷主である漁師・銀行員さん等・魚市場を縦割りに情報を得られる場所でした。

料理や魚等で解らない事が有れば、お客様に聞けば「親切・丁寧に」教えて頂けました。

今となっては飲食業に携わる物にとっては貴重な時間だったのかも知れません。

 

 

市場外に一般には商品として出回らない知られざる旬の雑魚を集め、雑活魚料理店「第三共進丸」を開店。

この店は出足好調で爆発的人気を集め、終に「市場食堂脱出」に成功!

「鮭鱒釣り」と「邪馬台国」しに明け暮れました。

 

丁度その頃、「地鶏食堂」を開業しましたが、右も左も分からない鶏の世界でした。

当時使用していた鶏からすると、 数段上を行く美味しい鶏に辿り着いたと思って居ります。

 

当店の鶏は、昔し田舎の庭先で飼育されていた庭鶏の味です。

「450日令ブロイラー種鶏のモモ肉」 「600~700日令親鶏」を主力としています。

普段食卓に上がる鶏とは全く異なる「鶏の世界」を味わって頂きたいと考えております。

 

「地鶏食堂までの道筋」バナー画像は「比内地鶏専門店 とりしげ」様のポスターを一部切り取ってお借りして居ます。

現在は「居酒屋 まつもと」を営まれて居ます。

兵庫県川西市けやき坂1丁目3ー11      Tel 072-798-1666

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

味自在誕生

 

 

雇われなら3日も続かなかったのでしょうが、家業ゆえ逃げ出す訳にも行かず、「如何にして魚市場から脱出するか」そればかりを考える毎日でした。           

「これやったらサラリーマンの方が良かった!」・・・・本音です。

毎夜23時に起きて仕込みの毎日、いつまで経っても同じ事の繰り返しで、来る日も来る日も天麩羅をあげ、魚を煮る。

とくにこの魚を煮る作業は苦手でした。

起きたての、まだ少量アルコールが残っている体で、魚の生臭みに醤油と砂糖のうす甘いタレを、丁寧にアクを取りながら何度も味見を繰り返す。

毎日、砂糖・醤油・酒・味醂を使うのなら「何で最初から混ぜとかんとかいな?」と、今まで誰も混ぜて使用しないのが不思議でした。

 

人がしてない事をするのは勇気が要りましたが、面度臭さが上回り適当に混ぜてみることにしました。

何回も比率を調整していると、ついにはお客様から「魚の煮方を教えてくれ」と頼まれる様に成りました。                 

この時「手抜きの一発が花を咲かせ始めた」のです。

「俺は結構頭が良いばい」と一人満足して居ましたが、本当は頭脳の問題ではなく、ズボラな性格の成せる技だった事は言うまでもありません。
一人で飲む酒の旨かったこと!

それから数年、凝りもせず仕事が終われば近くの渓流へ走り、日祭日は九州脊梁を釣り回っていました。

無心にハンドルを操作していると、もしやと言う事に気づいたのです。

 

閃きと疑問

閃いた「アイデア」は、もしかしたらこの煮魚のタレは、ほかの料理にも通用するのではないか?、と言う事でした。

芋を煮、天つゆを作り、すき焼き・酢の物・味醂干・丼だし・焼肉・照り焼き・鰻の蒲焼など、利用した人たちからも、これは便利だ、旨かった等、好評も多かったのですが反対に辛かった、甘すぎるとの批評も受けました。

甘すぎると言う批評は分からなくもないが、から過ぎるとの意見は全く当たりません。

 

要は「甘い・からい」の違いと、味の「濃淡」を混同している人たちが大勢居るのです。

理論付けしてみると、和食調理では砂糖・醤油・酒・味醂などを使用する頻度が高いのですが、個人の甘さ・からさの好みは、ほぼ一定だと言う事です。

 

つまり砂糖対醤油の比率は、どんな料理にしてもほぼ一定で、すき焼きは甘い方が好きだけど、煮魚はからい方が好き等と言うことはあまりあり得ないのです。

要は醤油と砂糖の比率さえ一定にしておけば、後は「濃度」の問題だと言う事です。

 

「味が濃い・薄い」と「砂糖が甘い・醤油がからい」をゴッチャに料理されている方がかなりいらっしゃいます。

 

一度説明書を読んで下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これさえ理解出来れば「どんな味付けでも、簡単に出来るように成ります」。

使い慣れれば色を見ただけで、何時もお好みの料理が出来上がります。

更に従来通り、砂糖と醤油を混ぜ合わせながら味を付けて行くよりも、砂糖と醤油を前もって混ぜ合わせて置き、そこから甘くするか辛くするか、一方向に味を付けていく方が凄く簡単な調理法なのです。

この調味液を、味を自由自在にコントロール出来る事から『味自在』と名づけて販売しております。

詳細説明書を添付していますので、是非一度ご利用ください。

醤油と砂糖を使用する、和食調理に関しては簡単・確実に旨い料理が出来上がる様になります。

手抜きの名人「味自在」・・・確かに、手抜きなのですがインスタント調味液では有りません!

 

味自在

 

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